現在の本殿は数えて三代目となるもので、平成三十年の秋に竣功しました。
(初代は明治四年、二代目は昭和三年の竣功)
明治初年に、当時の横浜港の主要な輸出品であった生糸および蚕種の守護神として、豊受姫大神を祀り建立されました。
令和5年8月に新しい社殿が竣工しました。
奈良県の三輪明神大神神社の御分霊です。
通常見られるような社殿は設けず、磐座と呼ばれる古代の祭祀場を再現しております。
令和6年3月に境内整備を行い、新たに三ツ鳥居を建てました。
大正15年建立の高さ6メートルの常夜灯です。
関東大震災で倒壊した以前の照四海は、灯台を模しており、実際に船が目印にしたとの記録があります。
伊勢神宮と同じ形をした神明鳥居です。
こちらは台湾ヒノキの素木(しらき)で作られています。
昭和55年(1980)創建110年を記念して改築されたものです。
銅製の神明鳥居です。昭和45年(1970)に創建100年を記念して建立されました。
明治初め創建にあたって、横浜内外からの奉納により高さ8メートルの立派な鳥居が立ちました。
大正5年に改築され、関東大震災後にも修理されました。
当初の台座二基がその脇に保存されています。
伊勢山皇大神宮では、創建の遷座祭(明治3年4月)後に社殿整備が着手され、明治4年4月には本殿拝殿などが竣工しました。
同年7月に神奈川県が神祇官に提出した文書によると鳥居は四か所と記されています。
そのころの境内景観を手書きで描いた図面によると、「一ノ鳥居」「二ノ鳥居」「三ノ鳥居」の存在が分かります。
一ノ鳥居、二ノ鳥居は改築等を経て現在も境内の同じ場所に鳥居があります。
三ノ鳥居は表参道と紅葉坂との交差点付近に記されていますが、現在は痕跡も残っていません。
多くの神社では複数の鳥居がある場合、本殿から遠い順に一、二、三となっていますが、伊勢山皇大神宮の場合には本殿から近い順に一、二、三と数えられています。
明治22年に当時の大遊郭・双葉楼より奉納されたものです。
東日本の注連柱として最大級となります。
関東大震災も耐え抜き往時の姿をとどめています。
昭和3年の昭和天皇さまの御即位を奉祝し築かれました。
大太鼓が納められており、毎朝(夏季6時・冬季7時)号鼓が轟きます。
高さ約七・四メートルの碑は、明治十年の西南戦争にて戦死した神奈川県内出身者百三十一人を慰霊するための記念碑です。
最後の国内戦争と言われる西南戦争は、明治政府に反発した鹿児島を中心とする九州士族が西郷隆盛を擁して挙兵し、政府軍がこれを鎮圧して終わったものです。
政府軍には徴兵された多くの一般国民が兵士として参戦しました。
この碑は、戦争終結一年後の明治十一年九月に当時の神奈川県庁関係者が中心となって建立されました。
碑には、太政大臣三條實美が題字を揮毫し、戦死者全員の出身地(郡町村)と氏名が刻まれています。
戦前までは、碑の前で招魂祭が毎年のように開催され、一帯は、「招魂社」とも称されていました。
当時は南参道を上がったところに招魂鳥居と呼ばれた鳥居が建立されていましたが、現在は存在しません。
日露戦争で戦没した横浜商業学校(現・横浜市立横浜商業高等学校)出身者の慰霊碑です。
題字は高名な陸軍大将・乃木希典のものです。
万葉集巻八より志貴皇子の御歌が刻まれています。
万葉集の研究で名高い文化功労者犬養孝先生にちなみ、日本全国に建てられた万葉歌碑の一つです。
社号の刻まれた御影石の石柱です。
社号は明治天皇皇女の東久邇聡子さま(聡子内親王さま)にお書き頂いています。
高さ約3メートルの石碑で、明治7年1月に完成し伊勢山皇大神宮境内に設置されました。
当時の太政大臣三條(藤原)實美が題字を篆額したものです。
本文は約500字の漢文で、明治3年4月(旧暦)伊勢山皇大神宮が横浜の地に創建されたことなどを記しています。撰文(執筆)したのは、南総(千葉県南部)の重城 保という人物で、千葉県県会の初代議長となった後に、衆議院議員も務めました。重城は三條の知己を得ており、碑建立にあたり、三條から撰文を依頼されたと同家に伝わっています。
揮毫は碧山星野嶂、刻字は井溢泉と刻まれていますが、建立者や建立年月などの記載はありません。
また、文中「伊勢別宮」の字句が見えますが、伊勢山皇大神宮などを伊勢別宮とする案は翌明治8年太政官(太政大臣三條實美)によって却下されています。今後の研究課題と言えましょう。
明治40年に建立された日清日露戦争での戦没者の慰霊碑です。
題字は、日露戦争で東郷平八郎と並び称された名将・大山巌元帥陸軍大将のものです。
明治初年に建てられた大鳥居の台座です。
明治9年に横浜の地図が作成された際に刻まれた、水準点の印が残されています。
歴史的建造物 旧禮典所車寄(現手水舎)について
大正十二年(一九二三)の関東大震災で伊勢山皇大神宮は社殿のほとんどが消失してしまいました。
皆無となった境内の復興にあたり、建築計画を担当したのが建築家遠藤於兎でした。
遠藤は、国指定重要文化財・旧横浜正金銀行本店(明治三十七年築、現神奈川県立歴史博物館)の現場監督を務め、旧三井物産横浜ビル(明治四十四年築、日本初の鉄筋コンクリート造オフィスビル)や旧生糸検査所(大正十五年築)の設計を手掛けるなど、気鋭の建築家として知られた存在でした。
本殿、拝殿、末社、神饌所などの再建のほか、新しい施設として遠藤が手腕を発揮して設計したのが「禮典所」でした。
禮典所は木造二階建の和風建築で昭和二年に竣工、主に結婚式などでご利用されました。
唐破風屋根の車寄には十数台の自動車が玄関に横付けになっても余裕があることなどから、当時の新聞に「日本一の結婚式場」と紹介されました。
挙式者がこの車寄部分で記念写真を撮影され、その写真は今も御一家の思い出の品となっております。
昭和五十五年現記念館の整備に伴い解体されましたが、車寄部分は切り離して移築され、この手水舎に転用されました。
現在も当時のままの姿をここに留めています。